お悩み相談はこちらから
ヒガメタルの”ものづくり”情報特集
  1. トップ
  2. ”ものづくり”情報特集その1 『大田区のものづくりと、ヒガメタルの歴史』

”ものづくり”情報特集その1 『大田区のものづくりと、ヒガメタルの歴史』

2020年11月20日

大田区のものづくりと、ヒガメタルの歴史

2020年終盤となっても猛威を振るう新型コロナウイルスですが、ウイルスの脅威がおさまったとしても今後は新型コロナと共生していかなければならない時代が続くとヒガ・アーツアンドメタル株式会社(以後、ヒガメタル)では考えています。

そのような時代において、ヒガメタルが主力とする鉄鋼/板金加工事業を中心としたものづくりと通じ、社会とどのように関わり続けていくべきかを模索していくとともに様々な情報を発信していきます。

”ものづくり”の街、大田区

大田区は東京、さらには日本を代表するものづくりの街です。

特に小さな町工場を中心に数多くの工場が稼動し、工場数・従業員数・製造品出荷額も23区で最大を誇ります。工場数が1200強、従業員が約2万人、製造品出荷額が4000億円強と群を抜いた数字です(平成30年度)。

平成30年度 23区別工場数、従業者数及び製造品出荷額等(従業者4人以上)

(出典:大田区役所 工業統計 https://www.city.ota.tokyo.jp/sangyo/sangyou_suuji_jittai/toukei/kougyou/index.html

最盛期の昭和58年には9,190件の工場に、3万5千人を超える従業員が稼動していたとのことですので、大田区はまさに一大生産拠点でした。

特に10人以下の少人数工場が8割を占めるなど、大田区の工場を支えていたのは小さな町工場です。

なかでも生産用機械器具製品・金属製品・はん用機械器具製品などの機会金属加工の分野の工場が大半を占め、そこで働く名も無き職人たちが東京の、果ては日本の生産と製造の基盤を長く支えてきたのです。

江戸時代から続く大田区のものづくり

大田区がそうしたものづくりの街になった端緒は江戸時代にありました。

世相も安定した江戸中期、京都と江戸を結ぶ当時の大動脈である東海道の道すがらにある大田区・大森には長旅を行く旅人のための茶屋や土産やなどが並び、憩いの場所でもあったそうです。その大森の名物であり、土産物として大田区で製法が発達・発展した物品が「麦わら細工」です。

葛飾北斎も大森の麦わら細工の光景を浮世絵に描いています。

(大田区立郷土博物館所蔵 葛飾北斎「麦藁張細工」絵番付 文政3年[1820年] )

当初は日蓮宗大林寺の僧侶、日好(12世)が農民たちの困窮を嘆き、冬の農閑期に収入を得るために農村で制作が始められたという麦わら細工。

麦のわらを原料に作られ、鮮やかなツヤや細やかな細工が特徴で職人の熟練技術を感じさせられる工芸品です。

葛飾北斎の浮世絵にも見て取れるように各種意匠を盛り込んだ美しい細工が施された作品は、大森だけでなく江戸土産としても重宝され、江戸を訪れる武士や町人の定番の土産物となったようです。

麦わら細工のデザインや制作には葛飾北斎をはじめとした当時の一流クリエイターたちも関わっていたようで、画家や芸術家と職人たちが切磋琢磨する中で大森にものづくりの文化が育まれていったことが想像にかたくないところです。

時代の奔流に押し流された激動の時代

大正以降の大田区のものづくりは、日本の時流に大きく影響されることとなります。

職人が集まって工場が多かった大田区。大正時代には関東大震災の被害を受けます。

しかし、特に被害が甚大だった都市部からの人や工場の流入が増え、大田区には更なるものづくりの街となる基盤ができることになります。

 さらに昭和6年には東京飛行場が現在の羽田空港の場所に開港されました。

飛行機産業やその後に迎える戦争の時代に向けて、飛行機産業・戦車や機関銃などの軍需産業の工場が数多く大田区にも建てられることとなりました。

(羽田空港と大田区の工場)

戦後、昭和30年代後半以降は高度成長期に東京オリンピックのための羽田空港の港湾整備と様々な形でものづくりの街として大田区は発展することになります。

しかし同時に、公害問題が深刻化し東京湾での漁業に甚大な影響を与えるなど、社会問題化することとなります。

さらには2回のオイルショックの影響を受け、材料費の高騰や発注の大幅な減少などに苦しむこととなります。

時代に揺り動かされる大田区のまちづくりですが、小さな町工場同士が連携して仕事を複数会社受注で分業するなどの業態改善などの努力を続け、ものづくりの灯を保ち続けます。

その後、城南島などの東京湾埋め立て地が大田区に生まれます。

土地の拡大を受け、大田区には新たな工場が移転や新設され、昭和50年代には工場数が最大を迎えることになります。

70年の歴史を抱えるヒガメタル

激動の時代だった戦後に、大田区で産声を上げたのが弊社、ヒガメタルです。

昭和22年(1947年)に鋼材屋として、大田区に多数存在する金属・鉄鋼・板金加工等の工場に原料となる金属を卸ていく仕事をさせていただきました。

(城南島オフィス内)

鋼材の販売を続ける中で、鋼材屋としての目利きを活かして自社での加工・製造事業を開始するに至りました。

また、70年の鋼材屋としての事業のなかで多種多様な工場とのネットワークが生まれ、お互いの強みを生かして弱点をカバーしあうような関係性を築きあげています。

大田区の歴史の上に立脚するヒガメタル。今後も多種多様な業界の多様なニーズに応えた事業を続け、来るべきアフターコロナの時代を下支えする存在となっていきます。

お問い合わせcontact

無料見積もり依頼
お電話でのお問い合わせ
TEL:03-3799-5700
(月~金9:00~18:00 祝日除く)
FAX:03-3799-5710